一人でも入れる個人加盟の労働組合 労働相談は全国一般ユニオンおおさかへ
自治労全国一般ユニオンおおさかの仲間ら3名は、5月10日から18日(実質11日から17日)まで、連合主催の災害救援ボランティアに参加しました。
連合としては今回の派遣が第6陣(福島、宮城、岩手県で総勢298名)です。大阪からは私たち3名を含め計7名が全国の仲間とともに福島県において炊き出しを中心に被災者支援の活動を行ってきました(会津、郡山班は31名)。連合の本部から指示された活動の内容は、会津若松市での救援物資の仕分け活動と郡山市を中心にした炊き出し活動でした。
連合福島や地元のボランティアの話によると、「福島では瓦礫の撤去以前に食事に困っている被災者が多く、しかも、放射能の影響でボランティアの人数が足りない」、とのことでした。だから、私たちは炊き出しの仕事に一生懸命取り組みました。
私たちは朝6時に起床、7時半に宿泊所を出発して郡山市のボランティア活動の拠点、いすゞ自動車整備工場跡地に行き(バスで1時間かかる)、そこで炊き出しの準備をして各避難所に車などで向かいました。一部の人は翌日の炊き出し用の野菜切り、野菜洗いなどのために「いすゞ」のボランティアの拠点に残って作業を続けました(野菜は、人参、玉ねぎ、じゃが芋、ニラ、キャベツ、ゴボウ、里芋など)。
炊き出しの場所は、郡山市のビックパレット(1500人)、農業センター(50名、林業センター(20名)、三春町の春山小学校(150名)、伊達市の梁川などです。そこで被災者たちは板の間にダンボールで敷居をつくり毛布や布団を引いて寝泊りしています。ある仲間は「皆こんな状態でよく今まで耐えてきた!」とビックリしていました。
昼食のメニューは味噌汁、豚汁や鳥汁、コンソメスープやシチューなどです。地元のボランティアの指示に従って作業をするのですが、味付けは皆で相談しておこない、12時頃にはつくった鍋料理を被災者に提供しました。それから後片付けをして私たちも食事。その後、午後3時までには郡山の拠点に戻り食器洗いなどをして午後5時には宿泊所に帰宅しました。
私たちの炊き出しは被災者たちから「おいしい」「すごく助かる」という声がでるなどおおむね好評でした。それというのも、被災者たちの昼食は質素なお弁当かおにぎりだけで、あたたかいものや野菜や肉類が不足していたからです。お年寄りの被災者たちが命をつなぐため黙々と食べている姿が私の脳裏に焼きついています。劣悪な食生活や生活環境に耐えているお年寄りや子供達が多くいて、私もつらくなりました。しかも、こうした炊き出しさえない避難所も多くあるそうです。
これらの被災者たちはほとんどすべて原発の30キロ圏内の避難者で将来の生活の展望を失っています。家や農地、職場がちゃんとあってもそこにはもどることができないのです。私はある農家の悲痛な叫び声を聞きました。「家に帰っても田んぼもできねえ、畑もできねえ、おまけに放射能だ、草むしりもできねえ!」と。また、津波の被害も受けたあるトラック運転手は語っていました。「会社も家も被災し仕事を失い、家族も生きているのかどうかわからない、義援金も入っていない」、と。
私たちが、ボランティア活動している最中、避難地域外の福島県の農家が不安、悩みを抱えながら田植えをはじめていました。もちろん、放射能の影響、風評被害があり、苦労して米をつくってもどうなるかわからないからです。また、自分のところの「水道水は、地下水は大丈夫?」、「山菜は大丈夫?」、子供の通う「学校のグランドの土は大丈夫?」「放射能に汚染された土をグランドの下に残すのは許せない!」等々の地元の切実な不安、声が聞こえてきます。けれども、こうした問題は何一つ解決されていません。
しかも、ある福島県民は怒りを込めて語っていました。「ディズニーランドに福島ナンバーの車を置いていたら窓ガラスが割られていた。東京で卵を投げつけられた福島の車もある。東京のために電気を供給してきたのに許せない!」と。
私たちは、7日間のボランティア活動をつうじてこうした被災者の声を聞いてやるせない気持ちと腹立たしさをおぼえました。福島でのボランティア活動は有意義でしたが、同時に無力感も感じました。いまだ義援金も配られず厳しい避難所生活を強いられている原発の被災者たち。国や自治体はいったい何をしているのか、疑問に感じました。また、原発事故の被害の甚大さ、それは取り返しのつかないものである、と痛感し、これまでの政府・東電の安全キャンペーン・原発政策に憤りを感じざるをえませんでした。
労働組合は今こそ、こうした被災地の現実を受け止め反省し反原発・脱原発の方向性を鮮明にする時だとおもいます。そして、ボランティア活動に取り組むだけでなく被災者の生活と雇用を守るために全力をあげるよう政府に強く求める運動をつくるべきではないかとおもいます。